25番と割り振られた住居に入ってみる。

 畳敷きの床は沈み込んで土の堆肥になっていそうな塩梅。そこから芽吹いた植物の蔓が、さぁ、これから床面を覆おうか、という前にここは取り崩されてしまう運命にあるのだろう。もうそれは目視できるほどに背後まで迫って来ている。




 選別をしながら、いくらかは心ここに残して置かれていった品々。

 もう見納めだ。

 ご家族の方、みてくれていたらなと。
 
 


 天使のシールを貼るような女児がここにいたのですね。

 息の詰まりそうな廃屋で、少し救われた気がする。




 昭和51年の年賀状。

 昭和51年、1976年といえば、黒柳徹子司会の「徹子の部屋」放送開始、日清が「焼そばU.F.O.」発売、アントニオ猪木対モハメド・アリが日本武道館で対戦、ピンク・レディーが「ペッパー警部」でデビュー、「こち亀」が週刊ジャンプで連載開始、など。

 ところで、新元号「令和」のバカ騒ぎに取り残されてしまっている、僕です。今の日本、これに関して異を唱えようものなら、粛清されかねない空気が醸成されていて、その張り詰めた全体主義の空気の中で大いに喜びなさいと、言われるがままに無理くり口角を上げて興奮して酔ったフリをして実は皆醒めているのにそれを勘ぐられると非国民扱いされてしまうので、踊りを間違わないように隣を必至にガン見して似せようと仕方なしに実はやっているのではと、透明感のある目で一連のお祭り騒ぎを冷静に見てしまっている、僕なのです。決して、ひねくれているというわけではなく。

 特にNHKのはしゃぎぶりが酷い。

 元号が発表された当日に書道教室で取材。小学生ぐらいの生徒約五十名ぐらいが勢揃い。今どきの書道教室にまずそんなに生徒数がいるのか疑わしいし、平日に大人数でやっているわけがない。近所の普通の子供が駆り出されて無理やり筆を持たされて書かされたあげく最後に「レイワー」と唱和させられたのだろう。「原宿の母」とかいう占い師にまでインタビューをして「令和」の画数がこうだから平和がどうたらとか、あんなオバサン、人の弱みにつけ込んで嘘ばっかり言ってお金を稼いでいるに過ぎない人なのに、これではNHKが師の片棒を担いでいるようなもの。

 昭和を見つめ直すことで、おまえだけは自分を見失うなよと、探索にも自然と力が入るというものである   




 御婦人の靴が多い。




 着物を着こなした艶やか婦人が、1970年代、確かに田浦の今は廃村となってしまったが、ここにいた。
 



 中村草田男が「降る雪や 明治は遠くなりにけり」と詠み、それをもじって「昭和は遠くなりにけり」。

 平成とともに、田浦の廃村も消えてゆきます。




 暖簾に、押入れ、オレンジ色の塩ビタイル。昭和がそのままに残っている。

 昭和のビニール袋、黒いゴミ袋があったので、開封させてもらいました。




日産立野自治会

 綿の厚いどてら。まピンク。

 ここのご婦人は、横浜にあった日産の工場で働いていたのかもしれない。




 誰がこんなの買うの? と海辺のお土産でよく飾ってあるが、高齢者の婦人の好みなのだろうか。








 ポストの表記は女性でした。

 長女は結婚をして旦那さまのもとへ。

 主人に先立たれた母親であるご婦人がここに独りで残っていたのでしょう。




 あと数日遅かったら、ああなっていたのかもしれません。




 田浦廃村の奥の山を進む。

 後ろを振り返った光景。




 前方。

 密林に消えた古代の都市みたいになっている。




 電柱横にも廃屋が。


 平成最後の大探索に、僕は取り掛かることになった   




つづく…

こんな記事も読まれています